ある視点1 「論語」と「韓非子」を問う意味
2024/4/30配信
「実践経営講座 No.45」
社長が求める新たな視点と考え方のマイニングがテーマです。
ある視点1 「論語」と「韓非子」を問う意味
◆ 論語と韓非子の視点
「論語」か「韓非子」か、社長同士の経営談議でよく話題となるテーマです。
論語(孔子)と韓非子(韓非)は、儒家の「仁」と「徳」による徳治思想と、法家の「法」と「術」による法治思想をそれぞれ代表する、中国の古典です。
また論語と韓非子は、儒家の性善説、法家の性悪説の対比で論じられもします。
経営談議では、社長の経営観やリーダーシップの在り方について、徳治か法治か、性善説か性悪説かをベースに、論語か韓非子かで談じ合うことが多いようです。
経営コンサルタントも、以前は人的資本に拠った論語派が多数でしたが、最近は法令順守の厳しい世論を背景に、韓非子を例えに企業統治を論じるコンサルタントも増えています。
とはいえ、徳治と法治、性善説と性悪説の視点だけでは、経営コンサルタントは務まりません。
何故なら、社長が求めるものは、社長自身には無い、新たな視点と考え方だからです。
◆ 儒家と法家の考え方
孔子や韓非子の生きた頃の中国は、封建制の下、黄河流域を支配していた周王朝が衰退し、群雄が割拠した春秋戦国時代にあたります。
封建制は、王が臣下に領地を与え、領主の座を保証する代わりに、臣下に戦時の戦力提供と毎年の朝貢を義務付け、忠誠を誓わせるものでした。
臣下の朝貢に対し、王は朝貢の何倍もの金品を下賜するのも、封建制の習わしです。
周の領土拡大が停滞した時点で、臣下を柵封する土地も無くなり、下賜により財政はひっ迫。
朝貢も毎年から数年おきとなり、下賜も減額され、やがて臣下それぞれが王を称し、互いがせめぎ合う混沌とした状況となったのが、春秋戦国時代です。
封建制が崩壊し「カオスと化した社会をどう立て直すか」を、諸侯に説いて周ったのが、諸子百家と呼ばれる学者達で、代表的な学派が儒家と法家でした。
儒家は、父親が家族を愛するように、人民を愛する「仁」に秀でた王の「徳」により、臣下と人民が自ら王に従う「徳治」を理想としました。
封建制を再興し、臣下は下賜目当てではなく、家族が父親を敬い慕うように忠誠を誓えば、封地を保証し、世襲による身分を固定するのが、儒家の考え方です。
法家は、王が「法」を定め、世襲によらず能力のある中央官僚や地方官を任命し、法を守らせ統制する「術」を以って国を治める、「法治」を唱えました。
封建制を完全に否定し、身分制を排して、中央集権による国家体制を確立するのが、法家の考え方です。
結果、数代にわたり中央集権体制を整えた「秦」が、封建制を脱しきれない国々を滅ぼし、黄河流域に統一国家を築きます。
◆ 論語と韓非子を問う意味
論語と韓非子の源流を遡ると、儒家と法家は「封建制の崩壊による社会の立て直し」を最大の社会課題として、共有していたことが分かります。
ただし、問題を捉える視点と解決策の根本的な考え方に、大きな違いがありました。
儒家は「現体制を維持するための改革」を目指し、法家は「現体制の破壊と新機軸による新体制の構築」を目指していたのです。
また、原点を探ることで論語と韓非子が示す、問題と課題の全体像も見えてきます。
徳治と法治、性善説と性悪説は枝葉に過ぎず、幹は社会の立て直し、根は封建制の崩壊、これが全体の姿であり本質です。
経営での「論語か韓非子か」の問いの意味は、問題と課題の全体像を捉える視点と、危機に際して従来の組織デザインを手直しするか、グランドデザイン自体を描き直すか、といった解決策をどう考えるかに、あるのではないでしょうか。
論語と韓非子の例えに限らず、枝葉に隠された幹や根に至る、新たな視点や考え方を社長に提供することが、経営コンサルタントの大切な務めだと思います。
編集後記
事実の視点で見れば、世界は法治国家か強権国家ばかりで、徳で治める国家は見当たりません。
しかし、国家や組織のグランドデザインは法治であっても、組織内部のマネジメントの基幹である、上意下達を円滑に行うには、徳治の心得も欠かせません。
法令順守、就業規則の厳守といった法治が、企業統治の底辺にあってこそ、人的資本を大切にする徳治が、経営に効いてくるものと思います。
「経営者は韓非子を読み、社員には論語を読ませよ」との言葉の意味も、一度は考えてみたいものです。
(文責:経営士 江口敬一)