「君主論」に見るリーダーの力量とは
2023/1/24配信
「実践経営講座 No.23」
西洋の古典に見るリーダー像についての話です。
「君主論」に見るリーダーの力量とは
◆ 「君主論」の時代背景
「君主論」は約500年前、イタリア・フィレンツェのニコロ・マキアヴェッリが、国家と君主の座を守る術を著した書です。
当時のイタリアは、ナポリ、ミラノ、ベネチア、フェレンツィ、ジェノバ、教皇領などに分裂し紛争が絶えず、度々フランス、スペイン軍に侵略され弱体化していました。
歴史的には、大航海時代とルネッサンスの全盛期を直前に控えていた時期にあたります。
フィレンツェを取り巻く混沌とした情勢は、IT情報化と技術革新のもと、大企業の市場の寡占化が進み、生き残りを掛け中小企業同士が競い合う現代の情況に重なります。
「宗教や道徳に関係なく国家には、獅子の勇猛さと狐の狡智を兼ね備えた君主が必要だ」
「時代に応じてやり方を変える君主は栄え、時代に合わないやり方をとる君主は滅ぶ」
「新たに得た領地には、君主自らが居し、統治が行き渡るまで離れてはならない」
「中立は敵と見なされる」
「運命の半分は、自分で変えられる」
「君主論」は、現代の経営にも通じる示唆に溢れ、座右の書とする経営者も多いようです。
◆ マキアヴェッリが目にしてきたもの
マキアヴェッリは「君主論」で、浅薄な倫理観や宗教観、大衆に迎合した者は滅び、現実の本質を見据え、冷徹に対応できる者だけが、国家と君主の座を守れると書き記しています。
マキアヴェッリ以前にも君主論は有ったものの、多くは神学者によるキリスト教の守護者たるべき君主の在り様についてでした。
当時のキリスト教的倫理観の下では、当然、マキアヴェッリの「君主論」は異端の書とされました。
それでも、多くの国家リーダーや経営者に読み継がれてきたのは何故でしょうか。
マキアヴェッリは、弱小国家ながらフィレンツェの書記官として内政に関りつつ、外交官としてフランス国王から地方の僭主まで、多くのリーダーと直接の関係を持っていました。
フィレンツェの民衆が不満の都度、共和制を望み統治者を追放し、或いは神権政治に傾倒し、破綻する度に再び強い統治者を求める姿。
民衆に迎合し追放された者、強権でイタリア統一目前にまで迫った者、様子見に徹し滅んだ者など多くの統治者の盛衰。
それら実際の目撃者であり、政治、外交、軍事の現場で、君主や領主達と対峙してきた当事者の書であることが、現代の経営者の共感を得ているからだと思います。
◆ リーダーの力量とは
倫理観や宗教観のきれい事ではなく、それらとは無関係に現実に対処できる君主のみが、国家を統治し繁栄させられるとマキアヴェッリは語っています。
現代でも、きれい事を言い立てる学者や評論家は多くいます。
人材は人財、コストではなく投資である。成長している企業は、お金をかけて人を大切にしている。成長を望むならもっと人に投資をするべきだ。
業績が良いから人にお金もかけられる。お金がなければ人にお金はかけられない。人を大切にするには、まず業績を回復させることが先決。これが現実です。
富豪を指さして、豪華な邸宅に住み、運転手付きの高級車に乗り、贅沢な食事をしてきたから、この人は富豪になれたのだと言えば、人は皆笑うことでしょう。
富豪を真似して借金を重ねれば、いずれは破産します。当たり前の現実です。
成長企業と富豪の例えは違うと、本当に言い切れるでしょうか。
ITで欧米は合理化を進め生産性を高めました。雇用は必要人員のみ、それ以上でもそれ以下でもありません。
日本では雇用は、企業の社会的責任とされ、合理化には時間とコストを要します。生産性は長らく停滞したまま、今では先進国の中でも最低レベルです。
DXにより、欧米企業は肥大化した本社人員の合理化を加速し、日本との生産性格差は一層広がり、日本は競争力を失いつつある。
それでも評論家は、雇用を守り賃金を上げれば、生産性も上がると主張するでしょう。
しかし、生産性が落ち込む中で賃上げをすれば、いずれ経営は破綻する。これが現実です。
きれい事は、時に現実を覆い隠してしまいます。
結果に責任を持たない評論家は、理念経営、健康経営、環境経営…、聞こえの良い〇〇経営の類を披露して見せます。
経営者が会社を守るためには、世情に流され、きれい事に惑わされないことです。
現代の経営者に求められるのは、自社と自社を取り巻く現実の本質を見極め、現実的な打ち手を打てる力量です。
今は、コロナ不況にインフレが重なり、中小企業の多くが事業継続の危機に直面しています。
危機に際し、冷徹に現実に対処するには苦痛が伴います。それでも社長は、決断しなければならない時があります。
「君主論」は、世間が求めるあるべき姿と現実の狭間で苦悩する社長に勇気をもたらし、道標となる一冊です。
編集後記
「君主論」で、マキアヴェッリが、あるべき君主のモデルとしたのがチューザレ・ボルジアです。
彼は、イタリアの織田信長とも言える人物ですが、彼を描いた塩野七生氏の「チューザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」は、「君主論」の背景をうかがい知る作品でもあります。
ちなみに「目的の為には手段を選ばず」は、マキャベリズムの言葉と同じく後世の誤謬です。
(文責:経営士 江口敬一)